【重要】子どもの教育における文化資本について

たのしい知育
タヌキ

「負担ない育児情報」「たのしい知育」について発信中
2022年〜おうち英語に目覚めました。
・田舎から上京して東京で夫婦二人で必死に子育て!
・娘4歳、息子0歳、実家遠方・夫婦共働き
・妊娠糖尿病→境界型糖尿病で食生活と運動で試行錯誤!

タヌキをフォローする

文化資本とは?

「文化資本」という概念はフランスの社会学者ピエール・ブルデューによって提唱され、
再生産される文化(=文化的所産という)のこと。

親から子に受け継がれる文化的な知識や体験のことで、将来子どもの資産になるもののことだ!

「文化資本」は三つに分類される。

1、「客体化された形態の文化資本」(蔵書、絵画や骨董品のコレクションなどの客体化した形で存在する文化的資産=要は文化的な「所有物

2、「制度化された形態の文化資本」(学歴、資格、免許等、制度が保証した形態の文化資本=要は文化的な「獲得された資格」

3、「身体化された形態の文化資本」(礼儀作法、慣習、言語遣い、センス、美的性向など=要は文化的な「生活習慣」

●この中で、一は、お金で買うこともできる。もちろん何を買うかのセンスは問われるし、親から譲られるものが多く含まれる点では、格差は生まれるが、財力でキャッチアップも可能。

●二は、成人になってからでも、本人の努力によって獲得可能な部分もある。しかし、そもそものスタートラインが違うという経済格差の問題はある。ただ後述する身体的文化資本に比べれば、まだ努力のしがいのある領域。

●問題は三の身体的文化資本である。

この身体的文化資本を「センス」と言ってしまうと身も蓋もないが、
「様々な人々とうまくやっていく力」とでも言い換えれば、
「主体性・多様性・協働性」はいずれも、この身体的文化資本に属する。

以前私が書評で書いた「非認知能力(自制心ややり抜く力)」も身体的文化資本の一種であると言えるのではないか。

例えばブルデューが挙げたのは、美的感覚や感性を含むセンスやマナー、味覚あるいはコミュニケーション能力など、その人の日常的な行動として染み付いているもの、いわゆる教養のことである。

子どもに伝えられるのは「身体的文化資本」

●身体的文化資本は、おおよそ20歳くらいまでに決定されると言われている。

その中でも私が家庭内で再生産されるだろうから特に娘に伝えていきたい身体的文化資本は以下だ。

●味覚
味覚は幼児期から12歳くらいまでに形成されるという説がある。
幼少期にファストフードなど刺激の強い、濃い味付けのものばかり食べ慣れていると、舌の味蕾がつぶれて細かい味の見分けができなくなる。
12歳というのが本当かどうかは議論の余地もあるだろうが、それが早期に決定づけられそうなことは想像に難くない。

●言語感覚、論理性
これらは小さい頃からの読書体験や言語環境が、子どもの成長に大きな影響を与えるのではないか。

●ジェンダー感覚
ジェンダーについての偏見など、ある一定以上の年齢になると「ちょっと、この人は治らないな」と感じることもある。同性愛者をからかったり、「ホモは嫌だ」「お前ゲイなんじゃないか?」「あの人オネエっぽいわよね」などと平気で発言する人がいる

いずれにしてもこれらの能力は、人生の非常に早い段階で、しかも、ほぼ自然に「身についていってしまう」たぐいのものだ。

どのように身につける?

「身体的文化資本」を義務教育で伝えようと提唱している平田オリザ氏は、
この身体的文化資本を育てていくには、本物、いいものに多く触れさせる以外に方法はない、と言っている。

・するどい味覚を身につけさせようとして、子どもに美味しいものと不味いもの、安全なものと危険なものを両方食べさせ、「ほら、こっちが美味しいでしょう、こっちが安全でしょう」と教える親はいない
・美味しいもの、安全なものを食べさせ続けることによって、不味いもの、危険なものを吐き出せる能力が育つ

・あるいは骨董品の目利きなどを育てる際も、本物、いいものだけを見せ続ける
・そのことによって偽物を直感的に見分ける能力が培われる。
・「身体的」文化資本であるから、できるだけ若いうちから、理屈ではなくセンスを身体に染み込ませていかなければならない。

つまり、幼少期から本物の、

・加工されていない産地食材を食べる
・星付きレストラン、料亭で食事する経験をもつ
・歌舞伎座での歌舞伎鑑賞
・美術館や博物館に行くこと
・演劇を観ること、ミュージカルに触れること
・図書館に行く習慣をつくること
・家に本が有り、読書へのアクセスが容易であること
・著名な文学作品に触れること

などを、親が提供することが重要だ。
それ以上に重要なことが親自身も楽しんで文化資本を取得する体験を増やすことではなだろうか

義務感で子どもを連れ回しても、子どもはそれを感じ取って心から楽しめないし、それは「連れ回された」「我慢して付き合った」経験でしかないのだから。

私の場合(私の得てきた身体的文化的資本)

身体的文化資本とは、
例えば、「家の書斎にあった万巻の書物を読破したとか、毎週家族で弦楽四重奏を楽しんだとか、家にしょっちゅう外国から友人が来るので英語フランス語中国語スワヒリ語などを幼児期から聞き覚えてしまったとか、家伝の武芸を仕込まれて十代で免許皆伝を得たとか、家のギャラリーでセザンヌや池大雅をみなれて育ったので「なんでも鑑定眼」が身に付いてしまった、などというのが「家庭環境」を通じて身体化された文化資本」である。

私自身は地方出身、親は公務員である
日本においては、身体的文化資本の差はフランスのような階層差というより、居住地域差に比例すると言われているが、私自身は政令指定都市に急行列車で20分ほどのベッドタウンで生まれ育った。

これが日本における地域階層のどのあたりに位置するかはわからない。
が、私が授かった身体的文化資本だと想起できる体験は以下である

・グリム童話、アンデルセン童話シリーズの絵本が幼稚園時代から家に揃っていた
・絵本は定期購読されていた
・幼児雑誌や児童雑誌(めばえや小学●年生)は購読していた
・学研を購読していた
・英語、水泳、そろばん、ピアノを習っていた
・図書館や本屋には週1〜2回行っていた
・美術館や博物館には年に1〜2回(有名展示が政令指定都市に来た場合)
・年一回の家族旅行先では美術館や博物館に行った(長野白馬のちひろ美術館やシャガール美術館など)
・月一回おばさん(母の姉)が流行りのJPOPを集めたCDを編集したものを送ってくれた
・2〜3ヶ月に一回レストランで食事していた(定食屋などではなく、街の予約が必要な創作料理やイタリアンレストラン)
・食事マナーや高級食材などは親からレストランで教えてもらった

総じて、読書習慣の取得、本へのアクセスのしやすさ、美術品や現代音楽への触れ合いは一定満たされていた

しかし、公立小学校、公立中学校、公立高校を卒業しているという点では、
東京都心で育った同僚の生育環境を聞くと驚くことがある

・演劇、ミュージカル、宝塚を月一回母親と見に行っていた
・祖母と歌舞伎座に通っていて、贔屓の歌舞伎役者がいた
・月一回は家族で星付きレストランに行っていた
・銀座でハイブランドの衣料品を購入してもらったことがある
・友人たちはみな裕福で学校は治安がよく先生は優秀で争いごとが少なかった

娘にさずけたい文化的資本はどんなもの?

少なくとも、自分自身が授かった身体的文化資本以上は伝えていきたい
また、強いあこがれをもって上京し東京で住居を構えているので
その利点をフル活用したい

具体的には以下を体験させてあげたい
・演劇、ミュージカルの観劇
・歌舞伎、能など伝統芸能の鑑賞
・国立博物館、国立美術館等、日本を代表する展示品の鑑賞
・外国の友人との交流、異文化理解、外国語に馴染む

【おまけ】とほほ・・つらい

上記のように憧れとコンジョーで上京し、東京に住み共働きしている我々夫婦が娘に自分たち以上の身体的文化資本をさずけたいと息巻いていても、それは無駄かもしれない、、、という記事を見つけた。

内田樹氏によると
・それは、「気がついたら、もう身に付いていた」ものであり、「気がついたら、身に付いていなかった」人は、もうどうしようもないのである。

・「私は・・・になりたい」というような社会的自覚が生まれてきたときには、「もう文化資本が蓄積されていた人」と「文化資本がゼロだった人」のあいだに乗り越えがたい「壁」が構築されてしまう。

・「え、そうなの? わ、たいへん。じゃ、うちの子はアメリカン・スクールに通わせてバイリンガルにして、ピアノのお稽古にいかせて、日舞とバレーと茶の湯と能楽と合気道も習わせることにしましょ。ね、あなたのお小遣い削るわよ。教育投資にあたし命をかけるわ」こういった「文化資本を金で買う」というこの発想そのものが文化資本の価値に対する根本的な無理解を露呈している。

・「要するに金でしょ? 文化資本もってるとお金もちになれるんでしょ? だから先行投資をして文化資本を安いうちに買いだめすればいいんじゃない」と考えている。

・しかし「豊かな文化資本に浴した人」というのは、ひとことでいえば「教養を貨幣よりも当然のように上位に置く感性」の持ち主のこと。

・「ほんとうにたいせつなものは金では買えない」という感性が「金で買える」はずがない。
文化資本について言えることは「それを身につけよう」という発想そのものが(つまり、資本を手にして社会階層を上昇しようという「欲望」そのものが)、(触れるものすべてを黄金に換えるミダス王のように)、触れるものすべてを「非文化的なもの」に変質させてしまうということである。

文化をお金で買おう、修得しようと思っている時点で、文化ではない。
つまり、文化を自然に楽しめていない状態である。
だからこそ、文化を自然に楽しめる状態、何の利害関係も考えずに、純粋に楽しいと思える精神こそ、お金を出しても買えない本当の身体的文化資本なのではないか?

もしそうだとしたら、親も楽しめる範囲で、新しい文化を開拓し、その体験を娘と共有したい!

コメント

タイトルとURLをコピーしました